【期間限定公開】『もう二度と食べることのない果実の味を』第23話

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【期間限定公開】『もう二度と食べることのない果実の味を』第23話


もう二度と食べることのない果実の味を

 じんじんと、頬が熱をもっている。痕にならないといいな、と思いながら、くちのなかで舌をうごかした。血の味はもうほとんど消えている。

 倉庫の底でひとり寝転がったまま、わたしはぼんやりとまばたきした。まだ十分も経っていないのに、ここに入ってきたときの記憶はこまぎれだ。

 たやすく開いた扉と、湿った黴の匂い。磨り硝子から斜めに射しこむ、ほそい夕陽。スローモーションのように倒れこむ、ふたりの影。ひかりのなかに、濛々とたちこめる白い埃。スカートを脱がす手は、土屋くんよりずっと黒くて、大きかった。

 汗で湿った指が、ぬるりと太腿を這う。太いゆびさきが、乱暴に下着を引きずりおろす。かちゃかちゃとベルトを外す音をききながら、わたしは目を閉じた。

 けれど、いつまでたっても、濱くんが触れてくる気配はなかった。おそるおそる瞼をあけると、彼は、ズボンと下着を脱いだ格好のまま、かたまっていた。

 目が合うと、怯えたように肩を震わせる。

「おまえ」

 ごくり、と唾をのむ音がひびく。

「ほんとに、いいの?」
「え?」

 いまさら、何を言っているんだろう。訝しく思ったわたしは、体を起こした。傾いだ陽ざしのなか、萎えた性器がゆれている。

 もしかして。わたしは口をひらいた。

「怖気づいた?」

 次の瞬間、目の前が白く眩く らんだ。

 頬が熱い。口のなかに、濃くて深い味がむっと広がる。殴られたのだと理解するまで、数秒かかった。

 濱くんは荒く息を吐きながら、もたつく手で服を整えた。

「誰かに言ったら殺す」

 そう言い捨て、彼は倉庫を出て行った。

 殺す、なんて。そんなこと、実際にできないくせに。

 黄ばんだ天井を眺めながら、わたしは長いため息を吐いた。

 ぎりぎりの淵までわたしを連れてきておいて、結局、自分ひとりで逃げ出した。そんなひとに、これ以上なにかできるはずがない。

 ゆっくりと体を起こして、足元に落ちていた下着を拾って身に着ける。乱暴に引きずり下ろされたせいか、スカートのホックが外れかけていた。ため息を吐いて穿き直し、倉庫を出る。

 外は、すでに昏くなりかけていた。淡い紫とブルーがいりまじった空に、疎林の枝々が、くろぐろと浮きあがっている。

 いっしょに落ちてくれるならだれでもいいと、思っていた。けれど、やっぱり、土屋くんしかいないのかもしれない。最後の一線を、ためらいなく、いっしょに越えてくれるひと。まっすぐわたしを貫く彼の熱が、今は無性に恋しかった。

 樹々の底に立ち尽くしたまま、わたしは夜に浸されてゆく空を眺めつづけた。

 

 

 まっかに紅葉した欅の葉が、はらはらと火の粉のようにおちてゆく。

「次、山下。問いの二十二」

 ぼんやり窓の外を眺めていると、吉野先生の声がした。あわてて数学の教科書に視線を戻したけれど、解答どころか、今ひらいているページが合っているのかすら自信がない。

「わかりません。すみません」

 ぼそりと答えると、先生は苛立たしげに息を吐いた。

「分からないわけないだろ。基礎中の基礎だぞ。……じゃあ中尾」

「はい」と隣の由佳子が応える。わたしはふたたび、ずるずると机に頬をつけた。

 結局、あのできごと以降、濱くんが声をかけてくることはなかった。何事もなかったかのように、目も合わさない。

 そのうち、濱くんと真帆が別れたらしい、という噂を耳にした。「振ったのは濱くんだって」と由佳子は話していたけれど、本当かどうかはわからなかった。真帆は何か話したそうな顔で、ことあるごとにわたしを見てくる。けれど、わたしは彼女を避けつづけていた。濱くんの話を聞かされるのが面倒だという気持ちもあったけれど、理由はそれだけじゃない。

 授業後、後片付けをしながら吉野先生が言った。

「山下。ちょっと来い」

 どきり、と心臓が疼く。たしか彼は、生活指導も兼ねていたはずだった。

 わたしはできるだけゆっくりと椅子から立ち上がり、教壇に近づいた。先生は肥った首をハンカチで拭いながら、小声で言った。

「なあ、最近どうした? 授業中、ずっとぼんやりしてるし、何かあったのか?」

 不穏な予想が外れたことに安堵しながら、わたしは「すみません」と答えた。

「もしかして、こないだの模試の結果、まだ引きずってるのか。反省するのはいいが、いい加減前を向かないと」

 吉野先生は、さらに声を低くした。

「もう十一月だぞ。しっかりしろよ。いくら内申が良くても、入試で点を取れなかったら意味ないからな」

 期待してるぞ、と言い残して、先生は教室から出て行った。

 吉野先生に言われたとおりだった。夏休み明けの実力テスト。十月末の中間テスト。そして、今月の初めに行われた模試。二学期に入ってから行われたすべてのテストが、悲惨な結果に終わっていた。

 もはや、濱くんや真帆にかかずらわっている暇はなかった。最近は帰宅してから、夕食と入浴以外の時間は、すべて勉強に充てている。けれど、焦れば焦るほど点数が下がり、判定は厳しくなってゆく。

 教室を出たわたしは、のろのろと西棟に向かった。こんなに追いつめられていてもなお、土屋くんとの逢瀬はやめられなかった。いや、追いつめられているからこそ、あの場所に通いつづけているのかもしれない。

 濱くんに見つかってからも、わたしたちは屋上への階段をつかっていた。濱くんが誰かにわたしたちのことを話さない保証は、どこにもなかった。けれど、ほかに適当な場所があるとも思えなかったし、探すのも億劫だった。わたしは半ば自棄になって、早足で歩きつづけた。

 いつもの階段をのぼってゆくと、壁にもたれて坐っている土屋くんの姿が目に入った。うつむくようにして静止している。

「土屋くん」

 呼びかけても反応がない。よくみると、彼は眠っていた。学校指定のダッフルコートにくるまれて、かすかな寝息をたてている。

 高い窓から降ってくるぼやけたひかりが、黒髪を淡く照らしていた。つむった瞼はわずかにあおじろく、耳のふちに生えた産毛が、ほの赤く透きとおっている。無防備に投げ出された彼の指に、自分の指をからませてみた。あたたかい指。

 この手は、この手だけは、わたしを責めることも、拒むこともない。

「山下さん?」

 いつのまにか、土屋くんが目を覚ましていた。わたしはとっさに、指先から手を離した。

「こんなところで寝てたら風邪ひくよ」

そう言うと、土屋くんは鼻を啜すすりながら「ちょっとうとうとしてただけ」と言った。

「最近、夜遅くまで起きてるから」
「勉強で?」

 彼は頷く。模試の判定どうだった、と訊ねかけて、やめた。わたし自身、いちばん訊かれたくないことだったから。

 赤い×を目にするたび自信がなくなった。このままでは、志望校に落ちてしまう。何もかもが駄目になってしまう。不安で頭がいっぱいになると、見落としがふえ、またミスを犯した。

 わたしはため息を吐いて、踊り場に寝転がった。正方形の窓から射す僅かな陽ざしが、天井近くにゆらゆらと水みたいにたまっている。

 遠いひかりを見上げながら、わたしは言った。

「もしどこか別の町の、別の家に生まれてたら、どんな人生だったんだろうって、たまに考えない?」
「どこに生まれたって、同じだよ」
「じゃあ、もしも土屋くんがわたしの家に、わたしとおなじように生まれていたら? 今とはぜんぜんちがう人生になるでしょう」
「それはもう僕じゃなくて、山下さん本人ってことになるけど」

呆れたように彼が言う。

「そうかな?」
「そうだよ」

 でも、とつづける。

「仮にそうだったとしたら、僕は山下さんとして自分の人生を生きて、山下さんの悩みを自分の悩みとして苦しんでいたと思う」

 土屋くんは、呟くように言った。

「自分が自分であることからは、どうしたって、逃げられない」

 それきり彼は口をつぐみ、静かにゆれるひかりを見つめた。

 

*

 

 その夜、久しぶりに夢をみた。

 町がまるごとひとつ収まるほど巨大な空間を、わたしはどこからか見おろしていた。一面ぬめらかな肉色の闇で充たされたその空洞の遥か下のほうで、ぬるぬるしたものが腐臭を放ちながら蠢いている。

 それは汚れた河だった。排泄物、吐瀉物、膿、血、体液。にんげんのからだからながれだしたものが、ひとつの巨大なうねりとなって、すさまじい臭いを放ちながらどこからかあふれだしている。

 よくみると、河の底には精子にも似た白い魚の群れが泳いでいた。ほかにも、荒廃した神殿の円柱が、神社の鳥居が、どろどろに腐って液状化した果実が、波間に浮きしずみしながら、冥くらい汚濁の河を流れてゆく。

 ここは「下」の世界なのだ、とわたしはふいに気づく。町の下。地面の下。皮膚の下。隠蔽され、廃棄され、埋められたものたちがつどう、くらやみと悪夢の庭。

 ほんとうは、こっちが正しい世界なのかもしれない、と夢のなかのわたしは思う。地上のまっとうで清潔な生活は、こんなにも醜く、不安定で、とほうもなく巨大な地獄の表面で、かろうじて保たれているにすぎない。

 きっと誰もが、自分の足元にひそんでいるものの気配を感じている。いつ崩れ落ちるかもしれない不安定な日々を、堅固でまっとうなものと信じて、いや、信じているふりをして、すがるように生きている。

 けれど。

 地獄はいつも、わたしたちのそばにありつづける。

 大地の上に立っている限り。わたしがわたしとして、生きている限り。

 のがれることは、決してできないのだ。

 

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本について詳しく見る

雛倉さりえ

1995年滋賀生まれ。近畿大学文芸学部卒。
早稲田大学文学研究科在学中。
第11回「女による女のためのR-18文学賞」に16歳の時に応募した『ジェリー・フィッシュ』でデビュー。のちに映画化。
最新作に『ジゼルの叫び』がある。

 

写真:岩倉しおり

本作はきららに連載されていた『砕けて沈む』の改題です。
本作品はフィクションであり、実在する人物・団体等とは一切関係ありません。
この文章の無断転載、上演、放送等の二次利用、翻案等は、著作権上の例外を除き禁じられています。

(c)Sarie Hinakura・小学館

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